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<須恵器の話> 西念秋生 Akio Sainen
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日本では古くから焼物が作られ、縄文・弥生と土器の時代が続き、古墳時代になると、中国を源(みなもと)とする灰陶(かいとう)が入ってきます。中でも泉北丘陵(大阪府堺市)では450年頃、朝鮮の伽耶(かや)土器に近い陶器(すえのうつわ)が作られるようになりました。 それらのスエキは、古墳の副葬品として一緒に埋葬され、今もあちこちから発掘されています。その後、奈良・平安と作り続けられ、久米田池(大阪府岸和田市)にも二基の窯が残されています。 行基(668〜749)は、和泉国(いずみのくに)大鳥郡(大阪府堺市)の生まれで、全国に寺院を作り人助けをしましたが、スエキを広めた事もあり、スエキは長いあいだ「行基焼」と呼ばれていました。 明治には祝部(いわいべ)土器と呼ばれ、戦後に須恵器と呼ばれるようになりました。この全国一の窯業地は、日本書記では「茅渟県陶邑」(ちぬのあがたすえむら・大阪府堺市)と書かれています。 |
1 中国を源とするスエキ
古代中国では、磚(せん)と呼ばれるレンガの使用が多く見られ、硬く焼き締まっているのが特徴です。硬く焼き締まった磚を焼くには、露天焼では中国の極寒の地で雨も降る地域には、素焼レンガは直ぐに崩れてしまいますので、山の斜面に穴を掘り、煙突を倒したような形の穴窯による高温焼成(1200℃前後)が興ったようです。
このレンガ窯で土器を焼くと、水の漏らない丈夫な灰陶(かいとう)ができました。中国では、銅の器が良しとされ、これに代わる物として、この灰陶が銅器を写して作られました。一例として、ローマ時代の銅製臼の器形は、灰陶にもあったのでしょう。和泉国の古いスエキ窯には、取手付でツキ棒付の臼が多く作られています。秦の始皇帝は、自らの古墳に等身大の灰陶で作られた兵士や馬を副葬しました。これは発掘により、兵馬俑(へいばよう)として世界に知られています。
2 中国から朝鮮へ
古墳は、中国で生まれた墓造り(墓制)で、生前より自分の死後の地として造られます。槨(かく)と呼ばれる遺体を安置する部屋は、木や石、磚で造られ、さまざまな装飾が行われています。死後にも使えるようにと、生活用品のミニチュアや、侍女を現した俑(よう)が作られ副葬されました。
この古墳造りが、朝鮮の北、楽浪に伝わり、あわせて漢の印文土器も伝えられ、朝鮮では新羅土器として定着しました。朝鮮では、この印文と磁州窯(中国河北省磁県彭城鎮を中心とした華北最大の産地)から入ってきた化粧の技法が合流し、今も伝わる「三島」へとつながります。
3 中国から倭へ
中国の貨幣は、宝貝を使う事に始まります。中国には無いこの貝は、銭(賎=せん=浅く薄い貝を表す)の代わりとして流通するのですが、この貝を求めて八重山諸島の宮古島沖にある、八重干瀬(やえびし)環礁に年に一度集来します。年に一度、大潮の日にこの環礁は海面より現れ、人々は大量の宝貝を採取していたのです。これが日本と中国の交流として伝わる最も古い事例です。
その後、秦(BC221〜BC206)の始皇帝が死を恐れ、兵土に不老長寿の薬を求めさせ、世界中に使者を送りました。この時、除福の一行は東へと海を渡り、八重山を経て徳之島までやってきます。この地で求める妙薬を見つけて中国へ届けますが、自らは一族を率いて東へ進み、熊野で永住したとされています。これが、有名な除福伝説です。
漢民族の衰えと共に中国南部へ押しやられた漢人の一部である客家(はっか)の人は、福建に今も伝わる大きな円形住宅が集合した砦を作り、世界へと出稼ぎに行く華僑が現れます。琉球のグスク時代には、これらの人々も多く流入しました。
また、村上水軍(倭寇)らは、古代より中国との交流が盛んで、中国の高僧鑑真(〜763)はこの船で日本へ来られたようです。福建は泉州の港を基点として、倭へのルートとして極めて重要な地です。このように南海ルートは、倭への灰陶伝来をも想像する事ができ、朝鮮南部の伽耶土器と、和泉スエキが同時発生したのではないかと考えます。
4 百済の新漢(いまきのあや)の陶部(すえつくりべ)高貴(こうき)
「日本書紀」伝の雄略天皇(5世紀後半)の七年の条では、“百済が大和に陶工を献上し、新漢(いまきのあや)陶部(すえつくりべ)の高貴を中心とした多数の工人に須恵器の製造を担当させた”と記されており、大伴氏が朝鮮と交流があったこととあわせて、伽耶土器が日本に伝わったのが和泉スエキ(陶邑)であると、今の考古学では言われています。しかし、先に述べたような琉球を中継地点とした大陸との往来史から見て、新羅土器から伽耶へ、そして日本へというルートだけではなく、スエキが中国から直接日本に伝わったというルートも検証してはどうかと考えています。
それは、臼と蓋坏(ふたつき)が伽耶にはないからです。和泉のスエキでは、400年頃の臼が出ています。
5 行基一族とスエキ
行基は、道昭(〜700)について仏教を学びました。道昭は、中国に渡り、玄奘三蔵に般若心経を学んで帰ります。「利他」と言う大乗仏教の流れを汲み、一般民衆の為に、自ら汗をかいて救済事業を行った人でした。
行基も、一般民衆の中へ出て行き、国の政策に反して院を造り、民衆を助けます。この頃、聖武天皇の平城宮にも天然痘が流行り、10人に4人もの死者を出すほどでした。天皇は「これは長屋王(684〜729)の怨念に違いない」と、都を転々と変えます。そして、行基にすがって信楽宮を造ります。この宮造りは行基と共に大仏を造る事業でもあり、その仏具作りには須恵器の工人や河内(大阪府東南部)の鋳物師も参加しています。
さらに奈良の大仏造営になると、和泉のスエキ窯で鋳造用の松炭を大量に焼いているようで、灰原が黒くなるほどでした。正倉院の三彩釉の仏具は、和泉のスエキ窯で焼かれたとも言われています。
何はともあれ、行基の広範囲な活躍は工人の移動にもつながり、全国にスエキを広める結果となりました。
6 六古窯とスエキ
日本の古い窯業地の内で、スエキの技術につながる窯を六古窯と、小山富士夫さんは名付けました。和泉の地は、日本一のスエキ生産地ではありましたが、都の衰退と共に、平安時代までには注文が無くなってしまいました。越前では甕、信楽では油壷、常滑では水甕、瀬戸では山茶碗、丹波では壷、備前では壷・甕・すり鉢などが作られました。
7 須恵器の末裔
石川県珠洲市の珠洲焼は、スエキの生き残りです。兵庫県神出(かんで)の窯も、すり鉢としてスエキが残ります。徳之島伊仙町に残るカムイ焼は、技術も衰えず薄作りのスエキですが、朝鮮からの影響が強いと考えます。これらは類須恵と呼ばれ、後世のスエキは窯内に分炎柱が形成され、古代のスエキ窯とは変化しています。
8 須恵器の技術
スエキは、中国式の製陶法で、手廻しロクロによる右廻りで作られます。粘土は、紐作りによる巻上げで、一寸ほどの高さで一度水引きで整え、半乾燥後、また一寸巻き上げてロクロ引きと何度も継ぎながら高さを出しています。一般には、巻き上げ水引き式と呼んでいます。今の土の塊から引き上げる磁器製法とは、作り方が異なります。
カメ板と呼ばれる板をロクロに置き、その上で一段仕上げて外す、この板には下駄のように二つのホゾ穴が開いていて、ロクロには二本の突き出た下駄の歯が出ていたようです。古い壷の裏に下駄跡という、この跡が付いています。
また、底作りは、小さい物には糸切が残りますが、大抵削って、紐作りによる付底があります。装飾は、クシ目とヘラ目、有孔があります。甕などの大物になると、ロクロ引をする前にタタキ板とアテ具で紐跡を消しています。
窯は山の斜面に7メートル余り、船底形の溝を掘り、屋根の部分をアーチ型に作り付けた登型と、L字型に掘り抜いた平窯の二種類があります。焚口は一つで、焼成後、この焚口と煙突は泥で密閉され、文字通り炭焼状態になり、残っていたオキ火により、強還元となって、体土に含まれる鉄分が赤色から青灰色に変化する独特の窯止めがあります。窯焚の日数は、自然灰のかかり具合からみて6〜10日は焼いているようで、最高温度は、1200℃前後です。
和泉と河内の薪争いがあったようですが、一回の窯焚きには10tぐらいの薪が要り、この薪の切出しは大変重労働で、薪がなくなると窯を薪のあるところへ移動し、100年位でまた戻って窯を焚いています。但し粘土は、一回の窯詰に1tもあれば十分です。
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